〇東京都出身 1969年7月生まれ(7月だから「なな子」と命名される) しし座 A型 故祖父は読売新聞社論説委員でジャーナリスト
〇大妻女子大学短期大学部家政科卒業。大妻女子大学付属中野女子高等学校卒業。
〇普通自動車運転免許。MOUS(マイクロソフトオフィススペシャリスト)。食品衛生責任者。防火防災管理者。認知症サポーター。乗馬ライセンス。
〇趣味・バドミントン、ウォーキング、トレッキング、音楽(昭和歌謡、JAZZ、作詞作曲歌唱)、映画鑑賞、スポーツ観戦(野球、サッカー)、温泉、神社仏閣巡り、猫カフェ(犬猫飼いたい)→最近は趣味の時間は取れておらず、自宅でラジオ体操第一を行うのが毎朝のルーティーン。
〇ミセスコンテスト2020グランドファイナリスト(50才の時、ミセスコンテスト(婚姻歴有り出場可)東京大会に出場、ベストエフォートアワード(努力賞)を受賞するも予選敗退。その約1か月半後のリベンジセッションに、体重を6㎏減量し再挑戦、グランプリ獲得!敗者復活を果たす。努力を重ね、諦めない心を培う。)現在では年に一度、審査員として、外見だけでなく内面の美しさも兼ね備えた、世界で活躍できる女性達の後押しを行っている。
〇前職・区役所の会計年度任用職員(非常勤職員)。入庁し約10年、課税課、介護保険課、建築課、環境課の4部署で従事して参りました。(入庁当時は嘱託員、現行の会計年度任用職員は2020年の制度改正から)
従事した業務は、窓口における各種申請受付を初め、証明書発行、審査会の事務局、請求書や見積書などの書類作成、会議などの資料作成、ファイリング、日報管理、伝票整理、データ入力、郵送対応、来客や業者対応、電話やメール対応、備品管理、啓発品製作、ロビー展示や地域センター祭りの運営など、ほぼ全ての事務業務を担いました。
誕生~幼少期
東京都練馬区で、サラリーマンの父、専業主婦の母、3姉妹の末っ子として誕生。よく寝てよく母乳を飲み、あまり泣かず、おとなしい赤ちゃんだったそうです。5人家族で話し相手には困らなかったせいか(というより、私自身はあまり喋らず、いつも姉2人の会話を聞いていた)、人見知りで知らない人に声をかけられると母の後ろに隠れてしまう、そんな幼少期でした。
かと思えば、お遊戯会などの発表会になると、主役を生き生きと演じるなど、活発な一面も持ち合わせていました。お蕎麦屋さんの幼馴染の家に遊びに行くと、おやつのざるそばをとても楽しみにしている幼稚園児でした。
小中学校時代
小学校も中学校も、地域の公立学校に通いました。小学校2年生の時、家庭の事情で1回転校しました。
誰一人として知り合いがいない中で、転校生としての挨拶する時、緊張のあまり、担任の先生から「どこから来たの?」という問いに、「あっちから」と答えたことを今でも覚えています。大勢の人前での挨拶の場面は、未だに緊張します。
3年生になる頃から、学級委員に選ばれたり、学芸会では主役をやることが多かったです。表現をすることが楽しかったですね。
走るのが速かったため、運動会では小学校、中学校、高校と、ほぼ毎年リレーの選手でした。リレーで2人抜きしたこともあり、観衆の中から母が前に出て来て私を応援する姿が見え、張り切ったことを覚えています。
中学校ではバドミントン部に所属し、北多摩地域の大会に出場するなど、シャトル(羽根)を追いかけた青春時代でした。
高校、短大時代
高校は中野区にある、大妻女子大学付属中野女子高等学校に通うことになりました。
当時の制服は森英恵さんデザイン、紺と青の中間のような色のボレロにジャンパースカート、グレーの襟が他校になく、独創的でかわいかったです。現在は、紺色のブレザーにチェック柄のスカートになっているようです。
中間テストや期末テスト前になると部活がお休みになり、帰宅も早くなります。ちょうど16時頃でしょうか。こたつに入ってみかんを食べながら母と見るテレビ時代劇「江戸を斬る!」が大好きでした。西郷輝彦さんがカッコ良かったですね。松坂慶子さんもとてもお綺麗でした。
短大は、大妻女子大学短期大学部家政科に入学。創立者である大妻コタカ先生の「良妻賢母」の精神をしっかりと学びました。よく相手に対して使われる「恥を知れ」よいう言葉は、大妻家の家訓でもありますが、本来は己に対して恥じることのないように、という主旨になります。
OL時代
小さい頃から、住みたい家の間取り図を描いたりするなど、住まいに関心があったことから、短大卒業後は不動産会社に入社。最近ではあまり聞かなくなった言葉ですが、OL(オフィスレディ)として社会人の仲間入りをしました。不動産営業に関する書類の管理や、営業マンのアシスタント、庶務などを担当しました。販売期間中は、モデルハウスに出向になることもありました。
専業主婦時代
21才の時に結婚、22才で母となりました。小さな命を授かり、親としてきちんと育てていかなければと、自身がまだまだ未熟であるためプレッシャーに感じることもありました。当時の配偶者は仕事が多忙で、ワンオペで育児をしているような時期もありました。
上の子が小学校の時、2人目の子を出産。にぎやかになりましたが、パートに出たり、PTAの役員を務めたり、子育てに休みはないことを実感しながら、子ども中心の日々を過ごしました。
シングルマザー時代~現在
約19年間続けて来た家庭時代でしたが、40才の時に離婚。それからは、私にとって試練の連続でした。シングルマザーの生きにくさを痛感しながら、必死に生きて来ました。何が一番大変だったかと言うと、それまでほぼ専業主婦で、お金をかけるなら子どもにと、自分磨きを怠って来たこともあり、思うような仕事がなかなか見つからなかったことです。後悔先に立たずです。仕事が見つからず、住むところも借りられず、にも関わらず、それまで住んでいたところは出て行かなくてはならず、立ち退きの期日も迫り途方に暮れた時もありました。それでも困難な壁にぶち当たる度、何とかかんとか乗り越えて来ました。
子ども達にあまり手がかからなくなって来た頃、がむしゃらに生きて来て、気が付いたら50才になっていました。そこで人生を見つめ直し、これからは少し自分の時間を持とうと、色々なことに挑戦を始めました。モデル事務所に所属したり、音楽のグループで活動したり、ミセスコンテストに出場したのは、自分の殻を割り何か変わりたいと思っての挑戦でした。どれもかけがえのない経験になりましたが、どこか自分の居場所ではないような気がしていました。
政治を志したきっかけ
〇シングルマザーの生きにくさを痛感!
40才になるまで、キャリア形成して来なかった私の就職職活動は、想像以上に困難なものでした。ハローワークでは希望する会社に応募すら出来ないという厳しさを目の当たりにし、自分がダメ人間になった気分で毎回帰路に着いたことを思い出します。定職に就いていないと思うような住まいも借りられず、途方に暮れる日々を過ごした時期がありました。色々なことにアンテナを張りながら、2年ほどあちこちパートなどで働き、当時の職場の方から区役所の嘱託員という職があることを教えてもらい、非正規雇用ではありますが、やっと定職に就くことが出来ました。今から思うと、就職氷河期世代と重なっていた時期でした。こういったことなどから、シングルマザーやひとり親、独身の方や単身高齢者の人が、もっと生きやすい仕組みを作って行けたら良いなと思うようになりました。
〇頑張った人が頑張った分だけ、報われる社会を!
離婚してから10数年、パートや契約職員、会計年度任用職員など、ほぼずっと非正規雇用として働いて参りました。真面目に働いていれば、いつかきっと良くなると信じて、自分なりに懸命に働いて参りましたが、当時は賞与の支給はなく、ボーナスの時期になる度に切なくなっていました。2020年には、同一労働同一賃金が叫ばれるようになりましたが、業務内容に見合った額ではないように思っていました。パートだって、アルバイトだって懸命に働いている、そんな頑張っている人が頑張った分だけ報われる社会を作って行きたい!という思いが、心の中でくすぶっていました。区役所の窓口で生活が大変だといった話を聴く傍ら、本会議の放送を聞いたり、区議会議員の姿を目にすることもしばしばありました。その後、部課長級の上司から仕事の状況をヒアリングされたり、資料やデータを用意することもありました。自分が成し遂げたい思いと区議会議員という立場が、無意識のうちにリンクされていたように思います。
〇経済的な理由により、進学をあきらめさせてはならない!
娘は第一志望の大学に合格しました。しかし最終的に娘は、第一志望ではない大学への進学を決めました。理由は経済的な不安でした。経済的に決して余裕のある家庭ではありませんでしたが、私は娘の進学を止めたことは一度もありません。むしろ、どの道を選んでも全力で応援するつもりでした。それでも娘は、「これ以上、家計に負担をかけたくない」と自ら進路を選びました。私はその決断を尊重しましたが、親として複雑な思いもありました。数年が経った今、娘は自分の選んだ進路に誇りを持ち、「あの決断に後悔はない」と言っています。私自身も、子どもの意思を尊重できたこと、そしてその挑戦を支えられたことを大切に思っています。しかし同時に、経済的な事情が若者の進路選択に影響を与えている現実を、私は強く実感しました。努力する子どもたちが、お金の不安なく学びに向き合える社会をつくりたい。この思いは、私が政治を志した原点の一つです。
このような思いが、私を政治への道へと突き進ませました。
一人ひとりが安心して暮らせる新宿へ
かなくぼなな子が作ってまいります