〇東京都出身 1969年7月生まれ(7月生まれだから「なな子」と命名) しし座 A型
〇大妻女子大学短期大学部家政科卒業。大妻女子大学付属中野女子高等学校卒業。
〇普通自動車運転免許
車の運転が好きです。20歳で免許取得後、現在に至るまで切れ目なく運転しています。最近は専ら、実家の乗用車ですが。初めて所有した車は、FORDフェスティバ紺色のキャンバストップ。屋根を開けると気持ち良い風が感じられました。
アルバイト等で、HONDAやBMWのショールームにいたこともあります。特にBMWは一度書類選考に漏れたのですが、次の機会に再挑戦。人事の方に「前にも応募したよね」と言われ、ご縁につながりました。
〇資格・MOUS(マイクロソフトオフィススペシャリスト)。食品衛生責任者。防火防災管理者。認知症サポーター。乗馬ライセンス。熱中症対策アンバサダー。
〇新宿消防団。新宿区防災サポーター。新宿区女性の健康づくりサポーター。
〇趣味・バドミントン、トレッキング、カメラ、音楽(自分で作った曲がカラオケに入っています!)、スポーツ観戦(野球、サッカー等)、釣り、温泉、神社仏閣巡り、猫カフェ(犬猫飼いたい)→最近は趣味の時間は取れておらず、運動不足を感じています。
〇ミセスコンテスト2020グランドファイナリスト
50才の時、婚姻歴有りなら出場可の某ミセスコンテストの東京大会に出場、ベストエフォートアワード(努力賞)を受賞するも予選敗退。その約1か月半後のリベンジセッションでは、体重6㎏減量し再挑戦、グランプリを獲得し敗者復活を果たす。努力を重ね、諦めない心を培いました。現在では年に一度、コンテストの審査員として、外見だけでなく内面の美しさも兼ね備えた、世界で活躍できる女性達の後押しを行っている。
〇前職・区役所の会計年度任用職員(非常勤職員)。入庁し約10年の間に、課税課、介護保険課、建築課、環境課の4部署で従事して参りました。(入庁当時は制度上、嘱託員)
従事した業務は、窓口における各種申請受付を初め、証明書発行、審査会の事務局、請求書や見積書などの書類作成、会議などの資料作成、ファイリング、日報管理、伝票整理、データ入力、郵送対応、来客や業者対応、電話やメール対応、備品管理、啓発品製作、ロビー展示や地域センター祭りの運営など、多くの事務業務を担いました。
誕生~幼少期
東京都練馬区で、サラリーマンの父、専業主婦の母、3姉妹の末っ子として誕生。よく寝てよく母乳を飲み、あまり泣かず、おとなしい赤ちゃんだったそうです。5人家族で話し相手には困らなかったせいか(というより、私自身はあまり喋らず、いつも姉2人の会話を聞いていた)、人見知りで知らない人に声をかけられると母の後ろに隠れてしまう、そんな幼少期でした。
かと思えば、お遊戯会などの発表会になると、主役を生き生きと演じるなど、活発な一面も持ち合わせていました。幼馴染のお家がお蕎麦屋さんで、遊びに行くとたまに、おやつにざるそばが出て来るので、それをとても楽しみにしている、ちょっと渋い?幼稚園児でした。
小中学校時代
小学校も中学校も、地域の公立学校に通いました。小学校2年生の時、家庭の事情で多摩地域に引っ越しし、それに伴い、転校しました。
誰一人として知り合いがいない中で、転校生としての挨拶する時、緊張のあまり、担任の先生からの「どこから来たの?」という問いに、「あっちから」と答えたことを今でも覚えています。今思うと、恥ずかしいですね。大勢の人前での挨拶は、未だに緊張します。
3年生になる頃から、学級委員に選ばれたり、学芸会では主役をやることが多かったです。表現をすることが楽しかったですね。
走るのが速かったため、運動会では小学校、中学校、高校まで、ほぼ毎年リレーの選手でした。全員リレーでは2人抜きしたこともあり、観衆の中から普段は控えめな母が、前に出て来て私を応援する姿が見え、張り切ったことを覚えています。
中学校ではバドミントン部に所属、北多摩地域の大会に出場するなど、シャトル(羽根)を追いかけた青春時代でした。バドミントン、楽しかったな。
高校、短大時代
高校は受験して、中野区にある大妻女子大学付属中野女子高等学校に通うことになりました。当時の制服は森英恵さんデザイン、紺と青の中間のような色のボレロにジャンパースカート、グレーの襟が他校になく、独創的でかわいかったです。現在は、紺色のブレザーにチェック柄のスカートになっているようです。
中間テストや期末テスト前になると部活がお休みになり、帰宅も早くなります。ちょうど16時頃でしょうか。こたつに入ってみかんを食べながら母と見るテレビ時代劇「江戸を斬る!」が大好きでした。西郷輝彦さんがカッコ良かったですね。松坂慶子さんもとてもお綺麗でした。主題歌の「ねがい」良い歌ですよね。
短大は、大妻女子大学短期大学部家政科に入学。市ヶ谷にあるキャンパスに2年間通いました。創立者である大妻コタカ先生の「良妻賢母」の精神を学びました。「ごもくめし」という本は、入学時にいただくので、2冊あります。そしてよく相手に対して使われる「恥を知れ」という言葉は、大妻家の家訓でもありますが、本来は己に対して恥じることのないように、という解釈だと聞いたことがあります。
OL時代
小さい頃から、住みたい家の間取り図を描いたりするなど、住まいに関心があったことから、短大卒業後は大手不動産会社に入社。最近ではあまり聞かなくなった言葉ですが、OL(オフィスレディ)として社会人の仲間入りをしました。不動産営業に関する書類の管理や、営業マンのアシスタント、庶務などを担当しました。販売期間中は、モデルハウスに出向になることもありました。モデルハウスでは抽選会もあり、100人近くいらっしゃるお客様の前でガラガラを回すのは、とても緊張しました。
専業主婦時代
若いうちに結婚して、早くに小さな命を授かりました。親としてきちんと育てていかなければと、自身がまだまだ未熟であったため、プレッシャーに感じることもありました。当時のパートナーは仕事が多忙で、ワンオペで育児をしているような時期もありました。
「〇〇ちゃんのママ」と呼ばれた子育て期がひと段落してからは、少しづつパートに出たり、PTAの役員を務めたり、子育てに休みはないことを実感しながら、子ども中心の日々を過ごしました。
シングルマザー時代~
約19年間続けて来た家庭時代でしたが、40才の時に離婚。それからは、私にとって試練の連続でした。シングルマザーの生きにくさを痛感しながら、必死に生きて来ました。
何が一番大変だったかと言うと、少し言い訳がましいですが、それまでほぼ専業主婦として生きて来て、生活に困っていた訳ではないけれど、お金をかけるなら自分より子どもにと、自分磨きを怠って来たこともあり、思うような仕事がなかなか見つからなかったことです。
仕事が見つからなければ、住むところも借りられず、住むところが借りられないのに、それまで住んでいたところは出て行かなくてはならず。立ち退きの期日も迫り、途方に暮れた時もありました。それでも困難な壁にぶち当たる度、何とかかんとか乗り越えて来ました。
仕事も、デパートやスーパーで服飾品や食品を販売したり、12月には時給が少し高くなるからと、クリスマスケーキやおせち料理を販売したり。その時期に家族連れを見ると、なんとも切ない気持ちになりました。その頃のトラウマなのか、街中にクリスマスソングが流れる季節になると、未だに胸が苦しくなります。
そんな中、その頃住んでいた団地の近くの区役所で、嘱託員(現在の会計年度任用職員)として職に就くことが出来ました。当時の私にとっては、これ以上ない好条件でした。本当にありがたかったです。
がむしゃらに生きて来て、気が付いたら50才になっていました。そこで、それまで走り続けて来ましたが、一旦立ち止まって、人生を見つめ直してみました。一度しかない自分の人生、このままで良いのかな?って。これからは少し自分のための時間を持とうと、色々なことに挑戦を始めました。モデル事務所に所属したり、音楽のグループで活動したり、ミセスコンテストに出場したのは、自分の殻を割り、何か変わりたいと思っての挑戦でした。どれもかけがえのない経験になりましたが、どこか自分の居場所ではないような気がしていました。
政治を志したきっかけ
〇シングルマザーの生きにくさを痛感!
40才になるまで、キャリア形成して来なかった私の就職職活動は、想像以上に困難なものでした。ハローワークでは希望する会社に応募すら出来ないという厳しさを目の当たりにし、自分がダメ人間の烙印を押された気分で、毎回しょんぼりと帰路に着いたことを思い出します。
定職に就いていないと思うような住まいも借りられず、途方に暮れる日々を過ごした時期がありました。色々なことにアンテナを張りめぐらせながら、2年ほどあちこちパートや契約職員などで働き、区役所の嘱託員という職があることを知り、キリの良いタイミングで応募しました。面接は緊張しましたが、なんとか採用して頂けました。不安定と言われる非正規雇用ではありますが、私にとってはやっと見つけた定職でした。
今から思うと、就職氷河期世代と重なっていたのですね。この世代の方々がなかなか就職出来ないことは、想像に難くありません。
シングルマザーなどのひとり親が、もっと生きやすい世の中になれば良いなと思うようになりました。
〇非正規でも、頑張った人が頑張った分だけ、報われる社会を!
離婚してからパートや契約職員、会計年度任用職員など、ほとんどの間、非正規雇用として働いて参りました。真面目に働いていれば、いつかきっと良くなると信じて、自分なりに懸命に働いて参りましたが、当時の会計年度任用職員は賞与の支給はなく、賞与の時期になると、世間で「ボーナスが出たら」という会話を耳にすると、やるせない気持ちになりました。
2020年には、同一労働同一賃金が叫ばれるようになりましたが、果たしてその通りになっているのかな?と思うようになっていました。パートだって、アルバイトだって同じ時間をかけて、懸命に働いている。それなのに、給料や待遇は、働きに見合っているのかな?なんだかおかしいなという思いが、心の中でくすぶっていました。
勤務時間中には、本会議の放送が聞こえて来ることもあり、執務室に訪れる議員の姿を目にすることもしばしばありました。その時点では、議員は近くて遠い人、という感じがしていました。
業務上、部課長級の上司から仕事の状況をヒアリングされたり、資料やデータを用意することもありました。そういう時は、議員からの議会質問や要望があったのでは、と今では良くわかります。
〇経済的な理由により、進学をあきらめさせてはならない!
離婚した時、小学生だった娘が、早いもので大学進学の時を迎えました。塾にも通い、家でも頑張って勉強に励んで来ましたが、残念ながら第一志望の大学には合格出来ませんでした。それでも合格した第二志望の大学は、面倒見の良い学校で、奨学金を受けられる成績を修めました。ありがたいことで、感謝をしています。
入学手続きが進んだある日、娘から「実は第一志望の大学、受かっていた」と衝撃の事実が明かされました。私の「じゃあ、そっちの大学にしようよ」という言葉に被せるように娘が、「手続きの締め切り、昨日までだったんだよね」と。私は一瞬、固まってしまいました。「今から聞いてみる!」何度言ったか覚えていませんが、娘は頑なに、第二志望の大学へ進学すると決めていました。
理由は経済的な不安でした。決して余裕のある家庭ではありませんでしたが、私は娘の希望する大学への進学を咎めたことは一度もありませんでした。むしろ、家計は大変でも、全力で応援するつもりでした。
それでも娘は、「これ以上、家計に負担をかけたくない」と、手続きを進めました。最終的には、娘のその決断を尊重しましたが、親として複雑な思いもありました。
数年が経った今、娘は自分の選んだ進路に誇りを持ち、「あの決断に悔いはない」と言っています。私自身も、子どもの意思を尊重できたこと、そしてその挑戦を支えられたことを大切に思っています。
しかし同時に、奨学金を受けながら大学に通う学生が、全体の半数近くに及んでいることを知りました。経済的な事情が、若者の進路選択に影響を与えている現実を、目の当たりにしました。
勉強したい、そんな若者たちが、お金の不安なく学びに向き合える社会をつくりたいーー
この思いが、私が政治の世界に突き動かした原点になります。
笑顔あふれる優しい新宿
あなたと一緒に、笑顔で作っていきたいと思います